1519年ぐらいに、ヘルマン=コルテスはアステカの王であるモンテスマの偉大なる宮殿に到着しました。彼とその一団は、モンテスマが一日50杯もチョコレートを飲むところや、カカオ豆で一杯の貯蔵庫、カカオを通貨として使う習慣を目の当たりにしました。
征服者のうちの1人は、チョコレートのパワーについてこう語ります「この飲み物は世界中で最も健康にいいものであり、もっとも滋養のあるものである。なぜなら、この液体を飲めば、どんなに遠くまで歩こうが、他に何も食べずに一日中行けるのだから。』
コルテスは、苦かったのでチョコレートを飲みはしませんでしたが、その健康的な価値には気づいていました。彼はスペインのキャロル1世に、「チョコレートは抵抗力を高め、疲労を回復する」と手紙を書きました。コルテスは後に新大陸を侵略し、メキシコやハイチ、トリニダードに農場を持ちました。カカオは彼がそこで育てた作物の1つです。スペインから新大陸へと渡る多くの旅の途中、西アフリカで初めてカカオを栽培したのはコルテスであると言い伝えられています。
スペイン人がアステカを征服し植民地を築き始めると、彼らはチョコレートを含む現地の食習慣の多くを残しました。入植者は砂糖やその他ヨーロッパの珍味を中南米に持ち込み、スペイン人は色々試してみた後、チョコレートをあったかく、甘くして飲み始めました。それは流行しやがてヨーロッパにまで渡りましたが、カカオ豆に課せられる高い税金のおかげで、16世紀の終わりまでスペインでは流行しませんでした。
スペイン人はそれでも、ヨーロッパでのチョコレートの人気を見込んでいたので、カカオの育つ土地を管理し、その存在を隠していました。しかし宮廷同士の交流があったために、チョコレートはヨーロッパ中に広まったのです。
貴族の結婚式でチョコレートはスターになりました。
1660年にスペインの王女マリア・テレサがルイ14世と結婚するためにベルサイユにあるフランス王室に来たとき、貴重なカカオ豆とともに、チョコレートを作る為だけの給仕の一団を連れてきました。その結婚式でヨーロッパの上層の人々に振舞われたのは、主にホットチョコレートでした。
それはのちにベルサイユに広まり、ルイ14世もそれを好きになっていきました。彼のオリジナルのレシピでは濃厚に作るため卵の黄身を使っていました。
大西洋沿岸では、ほとんどの医者や専門家がチョコレートを薬という財産とみなしていました。それは胃の不調から発熱、寒気まで、全てを治す万能薬と考えられ、命の薬とされていました。チョコレートは甘い食べ物というよりは、体にいいものとして好まれました。
チョコレートに対する17世紀の学者や医学の専門家の評価は・・・
・「チョコレートは、知っている通り、とても高貴な発明品なので、ネクタル(ネクタール、不老不死の霊薬である薬酒・滋養のある飲み物)やアンブロシア(ギリシャ神話では不老不死の食べ物)よりも神の食物であるべきだろう」―ジョセフ・ベイコット
・「チョコレートは少量だと胃によい」―バルベルド・トゥリース
・「チョコレートは私たちに安心を与える」―フルタード
・「チョコレートは今日発見されている中で最も健全で貴重な飲み物の一つである」―ステューベ
・「チョコレートは栄養があって体によい、さらに快適でナチュラルな休息をもたらしてくれる」―フーゲ
・「チョコレートは不眠症を和らげる」―デ・ブレグニー
・「チョコレートは健康を促進し、寿命を延ばす」―デ・ケロス
ヨーロッパでは当初、チョコレートはホットチョコレートとして飲まれていました。17世紀にはバニラ、アニス、バラの香水やピーナツのような香辛料や、ミルクや砂糖、卵といったものを加えて飲まれるようになりました。
ヨーロッパ人はリッチなその飲み物にオリジナルの仕上げを施したのです。
・「メタテ(Metate)」…メキシコから輸入され、焙煎されたカカオ豆をすりつぶすのに使われた石板
・「モリニージョ(Molinillo)」…チョコレートを泡立てるのに使われ、今でもメキシコや南米では使われているスペインの木製の泡だて器。フランスでは「ムスワール(Moussoir)」として知られている
・「マンセリーナ(mancerina)」…チョコレートがコップからこぼれるのを防ぐ特殊なソーサー。
・「ショコラティエール(chocolatiere)」…調合したものを注ぎやすくするフランスのチョコレートポット
コーヒー、紅茶、そしてチョコレートは3つとも同じ時期にイギリスに入ってきました。コーヒーはアフリカから、紅茶はアジアから、チョコレートはアメリカ(正確にはジャマイカ。1655年にイギリスの植民地となり、カカオ農場で栄えた)から。フランスではチョコレートは貴族のためのものだったのに対し、イギリスでは庶民の間に広まりました。お金さえ払えば、誰でも楽しむことができたのです。
ホットチョコレートは「チョコレートハウス」で飲むことができました。それは現在どの通りでも見られるコーヒーハウスとは異なるものです。
イングリッシュパブの先駆者でもあるコーヒーハウスは、もともと政治的なことが議論されるような場所でした。チョコレートはコーヒーよりも高価なものだったのですが、紅茶は3つの中で最も高級でした。
そしてそれら3つの飲み物は大量の砂糖と共に出されました。
チョコレートの人気が出るにつれ、宗教的な監視の目が光りだしました。ここ2世紀の間、カトリックの聖職者は「チョコレートは食べ物か飲み物か」「断食の期間中にそれを飲むのは罪か否か」というようなことをアツく議論しました。
一方で、1690年にイギリスからオランダに逃げてきた厳格で保守的なプロテスタント巡礼者が、アムステルダムのチョコレートハウスの隣に住みはじめました。チョコレートハウスで開かれるパーティは、となりに住む彼らの厳格な信念に障り、彼らはチョコレートを嫌い「悪魔の食べ物」と呼びました。後に彼らが北アメリカのプリムスに移住したときにも、彼らは植民地からチョコレートを根絶したほどです。
数年後、アムステルダムで作られたビターチョコレートのケーキは厳格なプロテスタントにちなんで「悪魔の食べ物ケーキ」と名づけられました。

